折に触れて夢に見る駅がある。それはホフ中央駅(Hof Hauptbahnhof)だ。
その駅を僕が訪れたのは2017年の春先で、その頃僕はドイツに一年間の留学をしていた。なぜその駅を訪れたのかはっきりとは覚えていない。ドレスデンにコンサートに聴きに行くのだったか、ライプツィヒに住んでいる友人に会いに行くのだったかそんな用事があって、その中継駅がホフ中央駅だったのだと思う。その頃お金は無かったけれど、とにかく時間はあった。留学中、一週間にとっている授業の数はせいぜい片手で数えられる程度で、週末は鈍行の列車や夜行バスに乗って友人と一緒にドイツ国内を旅行したり、フランスやオーストリアといった隣国を訪れたりした。その頃は今のようにパンデミックでもなければ、イギリスがEUを離脱することもなかった。シェンゲン協定があって、人と人の移動が制限されていなくて、簡単に国境を越えていけた。
僕は友人のKくんとよく一緒に旅行した。Kくんは同じ大学から留学していた留学生仲間で、大学に入った時に最初に仲良くなった友人だった。
その列車を見つけてきたのはKくんだったんじゃないかと思う。「ホフ中央駅経由東ドイツ行き25ユーロ」。僕たちの留学していた町は西南ドイツにあって、東ドイツに行くにはかなりお金がかかった。25ユーロ、3000円程度で行けるというのは破格の値段だった。「それにしよう!」即決だった。
その日、僕たちは深夜のホフ中央駅で降ろされた。深夜1時30分ホフ中央駅着、明朝4時45分発。破格の切符は深夜のトランジット便だったのだ。もちろんチケットを買うときに分かっていたのだけど、いざ深夜に見たことも聞いたことない駅に降ろされると何をすればいいのか分からなかった。
「降りたはええけど、列車来るまでやることないな」僕とKくんは黙ってしばらくホームのベンチ座っていた。でも吹きさらしの駅だったので、構内は春の夜風でとても寒かった。することもなく、冷えた体を暖めたかったので、僕たちは一度駅を出て、町を歩いてみることにした(ドイツには日本でいうところの改札機は無いので自由に駅を出ることができる)。
一応中央駅というくらいなのだから、それなりに大きな駅ではあるのだが、外に出ると何も無かった。だだっ広い車道があって、住宅地が広がっているだけで、その他には特筆するようなものは無かった。中継駅という言葉が似あうような地方都市の駅前だった。ぽつぽつと街灯が立っている以外は真っ暗で、星がとても綺麗に見えた。異国の地で見る星はやけに光がまぶしい気がして、見たことがない星々が浮かんでいるみたいだった。同じ北半球で日本と対して変わらない緯度にあって、見える星にそれほど大きな違いがあるなんてことないのだけど、それでも何だか違って見えた。
遠くから水の流れるような音がして、僕らはそちらに向かった。住宅街を少し抜けた先に少し草地になったようなところがあって、湖があった。
「こんなところに湖があるんやな」と二人して驚いた。深夜の湖はやけに黒々していて、何か得体のしれない物体みたいにみえた。でも水面に夜空の星々が浮かんでいて綺麗だった。
「なんかあそこにやけに光っている建物があらへん?」Kくんが言うと、確かに道の遥か遠くの方に、明るい光を漏らしている建物のようなものがあった。
「あてもないからそこまで歩いてみよか」僕らはだだっ広い国道を歩き始めた。
道は本当に静かで、深夜の町には人っこ一人通らなかった。僕たちが一体何をしゃべっていたのか全く思い出せない。とにかく笑っていて、何か楽しかったのだけは覚えている。光が近づくにつれ、僕らの声も大きくなった。
光の正体は巨大な無人のガソリンスタンドだった。深夜のロードサイドのガソリンスタンドは遠くからも分かるように煌々と光を放っていたのだった。ガソリンスタンドの横には小さなスーパーがあった。スーパーは照明を落としていて真っ暗だった。
「あっ、ここWi-Fi入る!」Kくんが突然叫んだ。無人のスーパーは閉店後も変わらずWi-Fiを飛ばしているようだった。
Wi-Fiを使ってGoogleマップを確認してみると、いつの間にか数キロくらい歩いていたようで、駅から遠く離れていた。
「案外遠くまできたんやなあ」僕がしみじみと言うと、Kくんはせやなあと相づちを打った。僕らは何をするでもなくしばらくの間、スーパーの壁にもたれてWi-Fiでインターネットを見ていた。
「……ところでさ、ホフ(Hof)ってどういう意味なん?」突然気になった僕はふとK君に訊ねてみた。
「中庭っていう意味やな」Kくんはそう答えると、携帯に入った辞書のアプリを開いた。「(壁や塀で囲まれ、しばしば舗装されてる建物・公共施設などの)中庭」と出てきた。
僕たちは妙に納得してしまった。だだっ広い道があって、見上げると星空があって、世界から切り離されたような町。確かに中庭みたいな町だなと思った。
僕たちはガソリンスタンドを後にしてさらに道なりに歩いて行った。それからどこをどう歩いて行ったのか知らないけれど、ぐるぐると町を回っていたみたいで、気がつくとまた元の駅前近くまで戻っていた。その頃には空も白んでいて、朝の気配が漂っていた。
「あっ、さっきの湖!」朝日を浴びて、いつの間にかさっきまで黒々としていた湖が姿を現していた。真っ暗で奥行きが分からず黒々と揺れていた水の塊は、よく見ると向こう岸が見えて、湖というにはあまりに小さかった。ちょっと大きなため池といったところだった(実際そんなところに湖があるはずないので、生活用水の貯水池だったのだと思う)。すっかり拍子抜けし、湖だといって大はしゃぎしていた自分達がなんだか気恥ずかしくなって、二人して笑った。
ホームに戻ってしばらく座って待っていると白んだ空気の中で列車がやってきた。列車に乗って座席に座ると、さっきまで歩いていた疲れと一夜を明かした眠気がどっと出て、そのまま眠りに落ちた。目を覚ました頃には目的地に着いていた。
ただそれだけの、何の変哲もない深夜のトランジット駅がホフ中央駅だった。
それなのに折に触れてホフ中央駅のことを夢に見る。
わずかな街灯が灯る、星空の美しい、庭みたいな地方都市のロードサイドを笑いながらKくんと歩く。特段何が起こるわけでもなく、そのまま朝を迎える。
そんな夢を時々見る。
去年の年の暮れ、Kくんと会うことがあった。お互いに働き始めて、コロナもあって、かなり久々の再会だった。色々と近況を話したり、思い出話に花を咲かせたりした。思い出話の流れからだったか、ホフ中央駅の夢を見るという話をKくんにしてみた。
「ホフ中央駅、懐かしい響きやなあ。……俺もな、実は時々夢に見るねん。何も無い駅やったし、大した思い出でもないねんけどなあ」 僕はとても驚いた。そんなつまらない夢をみるなんて、というちょっとした笑い話のつもりだったのだが、Kくんも同じような夢を見ていたのだ!
「どこに行くためのトランジットやったかも分らんし、他にも印象深い場所はあったやろうに、夢に見るのは案外そんな駅なんやなあ」そう言ってKくんは笑い、僕も笑った。
それからKくんと留学時代の思い出話に花を咲かせた。そして話をしながら、これからの人生の中でホフ中央駅に行くことはもう二度とないのだろうなと思った。もし何かの偶然で行くことがあったとしても、僕たちが訪れた深夜の庭みたいなホフ中央駅はもうどこにもないのだろう。思えばその時も、帰りはホフ中央駅に降りることはなかった。目的地に着いて、そこからまた別の町を経由して下宿先の町に帰ったのだと思う。ホフ中央駅への切符ははじめから片道切符だったのだ。
ホフ中央駅は僕たちにとってただの中継駅に過ぎなかった。中継駅はどこか目的地に辿り着くために、ただ通り過ぎていくためだけに存在する。でもどうやら中継駅には中継駅なりの美しさもあるらしい。そんなことに気づいてしまったからだろうか。今でもやっぱりホフ中央駅のことを時々夢に見る。